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源福寺の住職や土地の豪族村上氏により守られてきた御火葬塚は、石造鳥居の後方にあり、土塀で囲まれています。延応元(1239)年2月22日、この地で亡くなられた後鳥羽上皇を里人が集まって火葬した場所といわれ、このように整備されたのは明治の末になってからです。今も町民の間では「ごとばんさん」と呼ばれ、神聖な場として扱われています。 |
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後鳥羽天皇御火葬塚守部 村上助九郎さんのお話から
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19年の島生活の中、村上家に来ては世の憂さを晴らしていたという天皇。(村上家の)上壇の間(鷹の間)での病気の療養を続けた後に亡くなられました。
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火葬塚を訪れて
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生い茂る緑の森の中に、ひっそりと静かに火葬塚の鳥居が立っています。この鳥居の手前には、木でできているしっかりした柵が設けられています。入り口から鳥居まではおよそ50mほど距離がありますが、この柵が設けられているため、鳥居の近くまで寄ることはできません。白い塀に囲まれた広い敷地内にあるためか、鳥居はとても小さく見えました。
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◆◆散策ひとくちメモ◆◆
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後鳥羽上皇御火葬塚に上がる坂の入り口には『綱掛けの松』があります。1991年に上部を切り落とされたという『綱掛けの松』の説明看板には、「明治初期まで参道付近一帯が海岸で、当時は松の巨木が随所にあり、それぞれに船をつないでいたもので、同火葬域内に後鳥羽上皇の行在所跡があることから、位置的にみて当時には上皇の御船が係留されていたものと想像される」と書かれています。そう言われれば切り株の下部のでこぼこした部分(写真左上)には網を掛けたと思われるような跡も見られました。 |
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