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佐々木家住宅

<数量>1棟
<国・県指定別>重文
<指定年月日>平成4年8月10日
<備考>天保7年(1836)建

 七尾城主益田氏の居館跡と考えられている。この館跡は土塁で囲まれた2ha余りの広さをもつものと思われるが、現在土塁は東西側しか残っていない。東の土塁は、現存長87m、幅17m、高さ5m、西土塁は、現存長52m、幅13m、高さ3.5mで、南側は、現存しないが、長さ80m、幅5mにわたって土塁の痕跡が残っている。この館跡の建物構造については調査がなされていないので明らかではないが、本堂の前に存在する径1.7mの石組みの井戸は七尾城のそれと規模を等しくするという。この居館跡は益田氏が、長州須佐へ移行する慶長6年(1601)まで使用されていた。昭和45年(1970)10月県指定文化財。

 「飫宇(おう)の海(うみ)の河原の千鳥汝(な)が鳴けば我が佐保川の念(おも)ほゆらくに」という歌は『万葉集』巻三「出雲守門部王、京を思ふ歌」として載っている。出雲国の国守として赴任した門部王が都を思って詠(よ)んだ歌である。門部王が出雲守に任ぜられたのは記録にないが、養老4年(720)ごろから天平5年(733)ごろまでのいずれかの時期と考えられる。

 辺境の地である出雲に来て、千鳥の鳴く声を聞きつつ、同じく千鳥の鳴く佐保川がしのばれてならなかった都人の都恋しい感情あふれる歌である。昭和39年(1964)に、意宇川(いうがわ)河口近くの阿太加夜(あだかや)神社境内の面足(おもたる)山に歌碑が建てられた。

 現在の嘉楽園(からくえん)やその南の城山の入口に至る一帯が、旧藩主亀井氏の御殿があった場所である。もとは殿町にあったが、寛永2年(1625)焼失したのち、翌3年から工事にかかり同5年(1628)に完成し、以後240年間この地にあった。背後は津和野城、前面に津和野川が流れている。北、東、南の3面は溝で区切られている。当時は南北約300m、東西最大幅140mにわたる広大なものであった。その北半分、現在の津和野高校校庭に御殿の主要な建物があった。南半分を庭園とし、その庭園を嘉楽園と称した。現在の嘉楽園はその一部を公園化したものである。

 当時を物語るものは少ないが、津和野高校校庭入口にある元の校門あたりに、ここが御殿の本門の位置であったという説明が付されている。また物見櫓が移転されており、御幸橋のたもとには馬場先櫓が残っている。御殿跡は昭和50年(1975)5月に、馬場先櫓は同47年(1972)7月に県の史跡に指定されている。

<国・県指定別>重無民

<指定年月日>昭和51年5月4日

<備考>佐太神社9月25日例祭他

 鹿島町の佐太神社の祭礼の一つに、9月24日夜の御座替(ござがえ)神事があります。その当日から翌日にかけて行われるのが佐陀神能で、今日、その内容は、直面(ひためん)の執物舞(とりものまい)による「七座」と、祝言としての「式三番」、着面(ちゃくめん)の神話劇の「神能」の3部からなります。この3部構成の舞を佐陀神能と呼ぶようになったのは、氏子有志による佐陀神能保存会が発足した大正年間からです。

 七座は、神事ないし祭礼そのものであるため、御座替神事の夜に行われ、式三番、神能は祭礼後の法楽(ほうらく)としてつくられたもので、御座替神事の翌日に行われます。神能は、慶長のころ、当社の幣主祝(へいぬしはふり)宮川兵部少輔秀行が、京都で能楽の所作を学んで帰り、つくりあげたと伝えています。

 七座の方は、それ以前に発生したといわれています。

 ともに、藩政時代には佐太神社の触下(ふれした)三郡半、つまり、島根、秋鹿、楯縫の3郡と意宇郡西部の神主、巫女の奉仕によって行うのがならわしでありましたが、明治維新になり、近世以来の触下制度がなくなり、また神職の演舞禁止令で、従来の神職による奉仕ができなくなって、氏子の手に移され継承されたのです。そして、神能とのみ呼ばれていたのが、佐陀神能の名称がつけられ、七座、式三番、神能の3部構成が形づくられました。

 3部のうち、神能はその構成が、シテ、ワキ、ツレ、トモの役立ちになり、詞の間を地謡(じうた)でつなぎ、囃子として笛、小鼓、大鼓(おおつずみ)、太鼓を主として、全くの能方式をとっており、全国どこにもない、この地独特のものであることから出雲神楽の源流といわれています。

 佐陀神能は年を経るに従って興隆し、その知名度も高まり、昭和51年(1976)5月には国の重要無形文化財の指定をうけました。
 また、平成23年11月にユネスコの無形文化遺産として登録されました。

松江の城山稲荷神社(御城内稲荷)で10年毎に行われる式年行事です。同神社のご神霊を船渡御によって松江市東出雲町の阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)にお運びし、7日間の祈願ののち、城山稲荷神社にお還りになる船神事です。
初日の渡御祭は、神輿船を囲んで約100隻の船行列が壮観です。ホーランエンヤというのは、櫂伝馬船が櫂を漕ぐ時の掛け声から名づけられたとも、また「豊来栄弥」から生じたことばとも言われています。

城山稲荷神社は松平直政が寛永15年(1638)松江に入国した翌年、藩内の平穏を祈って稲荷神社を創建し、後に築城時からあった若宮八幡宮を合祀し、現在にいたっています。祭りは直政公が入府してから10年目の慶安元年(1648)の凶作により、五穀豊穣を祈って御神霊を船渡御によって阿太加夜神社に移したことに始まります。

櫂伝馬船が、曳船を努めるようになったのは、文化5年(1808(直政の入府から170年後・第八代斎恒))の御神幸の折、大橋川から中海にでる馬潟沖で風雨が激しくなり神輿船が危険になったのを馬潟の漁師が助けにでて阿太加夜神社まで無事にお送りしたことに始まります。
船行列は、城山稲荷神社から堀川を通り、大橋川へ出たが、現在は、堀川の水深が浅いこと、堀川に掛かる橋の架け替えや添架物により橋の通過が難しいこと、櫂伝馬船の大型化により狭隘区間の通過が危険であることから大橋川で御神輿をお待ちし、船行列を編成し阿太加夜神社に向かいます。

祭りの第1日目、御神霊が大橋川まで運ばれ、神輿船に移されます。船行列は、阿太加夜神社氏子船団を先頭に、清目船、櫂伝馬船、神器船、神輿船、神能船、両神社氏子船などが連なり、延々1キロに及ぶ大船団です。いずれも色とりどりののぼりや旗をひるがえし、「ホーランエンヤ」とはやしながら、賑やかに漕ぎ進みます。5隻の櫂伝馬船には、十数名の漕ぎ手、舳(へさき)に立つ剣櫂(けんがい)、艫(とも)では采を振ります。これは、代々口伝によって受け継がれてきたもので、馬潟、矢田、大井、福富、大海崎、の5地区の人たちが奉仕します。

行列は見物人の見守る中を、大橋川から中海へと進み、夕刻、阿太加夜神社へ着き、御神霊が安置されて、初日の行事を終えます。

翌日から7日間、阿太加夜神社で祭事が営まれ、中日には櫂伝馬船の乗り手も加わり、中日祭があります。
9日目は還御祭で初日と逆のコースで大橋川をさかのぼり、御神霊は城山稲荷神社にお帰りになられます。

先人積み重ねてきた文化、大衆の信仰によって支えられ、370年余りも伝承されたホーランエンヤは、厳島の管弦祭、大阪の天満天神祭とともに日本の三大船神事の一つに数えられる国内最大級の船神事で、最近では令和元年(2019)5月に開催されました。
2012年に松江城の近くにホーランエンヤ伝承館も開館しました。

古事記の神話に、黄泉の国(死者の国)と現世の境目として登場するのが、黄泉比良坂です。
松江市東出雲町の国道9号線から、緩やかな坂を約300mほど上がった場所にその伝承地があります。
静かな木立の中に、黄泉の国への入り口をふさいだ岩を思わせるような大きな岩が並び、神秘的な雰囲気を醸し出しています。
神話では、イザナギ命が先立った最愛の妻イザナミ命を慕い、黄泉比良坂を通って黄泉の国を訪ねて行きます。ところが変わり果てたイザナミ命の姿に驚いたイザナギ命は、黄泉の軍勢を振り切り、命からがら現世に戻ってきます。その時イザナギ命が黄泉の国への入り口をふさいだのが、千引の岩(ちびきのいわ)であるとされています。

本殿は正面3間、側面3間の入母屋造妻入桧皮葺で唐破風造の向拝を有し津和野の方向を向いている。
殿内は亀井家の四つ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ内陣の中央後方に須弥壇戴く厨子が置かれている。
厨子には行基の作の人磨像が納められている。

<数量>1棟
<国・県指定別>県
<指定年月日>昭和57年6月18日
<備考>正徳2年(1712)建

 宍道湖と日本海を結ぶ佐陀川運河の中ほど、鹿島中学校の前面一帯に広がる貝塚である。山陰では数少ない貝塚の一つであり、その規模や遺物の豊富さなど山陰の代表的縄文遺跡である。

 遺物には土器、石器、骨角器などの人工的な遺物と獣骨、貝類、木の実などの自然遺物がある。

 土器は縄文初期末から中期のものまで確認されている。特徴のある土器は丸底や尖り気味の底をもつ条痕文土器である。隠岐産黒曜石で作られた石鏃や石斧、おもり石などの石器も珍しい。牙玉のほか人骨の前頭部の骨片に二つの孔をあけたペンダントがある。魔除けを意味したのであろうか。

 獣骨は猪と鹿が多く、猿もある。貝類はヤマトシジミ、アワビ、サザエなどであり、木の実はシイノミが採集されている。湖沼水辺に近い佐太講武貝塚のあたりは、自然の恵みによって縄文人の生活に適していたのであろう。

 発掘調査は実施されていないが、縄文人の生活を知ることのできる貴重な遺跡である。

石見国分寺跡(現在の真宗松林山金蔵寺)の東北約330mに所在する。国分尼寺は曹洞宗東光山国分寺の境内にあった。この付近には尼寺に関する字名が残っており、以前には礎石も存在していたが、金蔵寺の改築の際に割って柱石に転用したという。ここから出土している瓦は、石見国分寺跡の文様と同じものである。昭和33年(1958)8月、県の史跡に指定されている。

 下府川に面する微高地上に所在する古代寺院である。下府廃寺塔跡として、塔の心礎部分が昭和12年(1937)6月に国の史跡に指定されている。

 平成元年(1989)から同4年(1992)まで発掘調査が実施され、塔跡のほか金堂跡が確認されている。塔跡は13m四方の基壇上に初重平面が7m四方の五重塔が想定され、金堂跡は塔跡西隣に7m離れて東西15m、南北約13mの基壇が築かれていた。寺域は一町四方と考えられ、時期は白鳳時代末から10世紀初頭前後までと考えられる。

 下府廃寺跡から500mほど東の丘陵斜面に所在する片山古墳(浜田市指定史跡)は、下府廃寺の創建に先立つ有力な豪族の墓であるが、これらは、当時の有力豪族たちが自らの権力誇示を古墳の築造から寺院の造営へと移していったことを具体的に示す貴重な文化財である。

キリシタン殉教の地、乙女峠に立っています。明治元(1868)年、長崎浦上から153人の隠れキリシタンが津和野に送られてきました。津和野藩は改宗を勧めましたが、応じなかった信者たちのうち37人が拷問の末に殉教しました。昭和26(1951)年、ドイツ人神父により聖堂が建てられ、ステンドグラスには殉教物語が描かれています。津和野教会の展示室に殉教者のパネルや聖書を展示しています。