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出雲大社凉殿祭

出雲森から御手洗井まで「まこも」を敷き、大御幣を奉持して参進する神事で「まこもの神事」ともいわれる。この「まこも」を頂くと病気にかからぬとの信仰がある。

 安来駅から東へ約300m離れた低丘陵上にある。

全長が約43m、後円部径約28m、後円部の高さ約5mの規模をもつ前方後円墳である。墳裾には葺石(、円筒埴輪片が露出しており、後円部北側にはテラス状の段が認められる。遺体を納めた主体部は後円部墳頂に墓壙(ぼこう)を穿って舟形石棺を納めたものである。棺内からは、人骨1体、鉄剣2以上、棺外墓壙から鉄鏃数本、鉄鉾1が出土した。石棺、出土遺物などから古墳築造年代は5世紀代と考えられる。昭和44年(1969)に県史跡に指定されている。

 『出雲国風土記』に「天武天皇3年(674)に語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)の娘がワニに食い殺されたので、父が敵討ちを行った」との記事があることから、ワニに食い殺された娘が葬られていると伝承されてきた所でもある。また『出雲風土記』の毘売埼伝承のゆかりの地として知られている。

 鷺舞は毎年、7月20日と27日に弥栄神社の神幸祭と還幸祭に奉納される神事です。雌雄2羽の白鷺が、時に羽根を寄せあい、また時に相対峙して優雅な舞を披露します。近年、津和野の夏の風物詩としてなくてはならないものとなり、毎年多くの観光客を集めています。もとは京都祗園会の風流であったもので、大内氏によって山口に伝えられました。これを、天文11年(1542)津和野の吉見氏がこの地に招来したことに始まるといわれています。一時中断していましが、亀井氏の入城とともに、再び京都から伝習して諸式の復興に努め、今日に至ったものです。古式をそのまま伝え、清楚な格調があり、近年京都、山口に逆輸出したといいいます。

 7月20日、弥栄神社の御神体が津和野川を渡御(とぎょ)する午後3時ごろからはじまります。鐘、太鼓、横笛などのはやしにあわせて、白の単衣に緋縮緬の袴、頭に鷺頭をかぶり、木製の白い羽根をつけた2人の舞い手は、まず神社の境内で典雅な仕草の舞いを奉納します。その後、狂言の足どりで素朴に端麗に踊りながら町内を練り歩きます。舞い手にはほかに棒振り、羯鼓(かつこ)と呼ばれるお供がつきます。笛、鼓、太鼓の囃子方、歌い手など総勢数十名が裃(かみしも)に威儀を正してこれに加わります。「橋の上におりた鳥はなに鳥かわささぎのかわささぎのヤーかわささぎ鷺が橋を渡した時雨の雨にぬれとりとり」という歌にあわせて舞い手が進み、離れ、回わり、向かいあって羽根を開くなどの所作をくり返します。その外側を棒振りが棒をつかいながら互いに逆に2周し、後方で羯鼓が上体を屈しながら鼓をうちます。以上の動作を町内の決められた11か所でくり返し演じます。7日後の27日還幸祭の日には、この逆のコースで同様の舞いを披露します。

 鷺が羽根を開き互いに寄り添う光景には典雅な恋情があふれ、見ている人を夢幻の世界に魅(ひ)き入れてしまいます。昭和33年(1958)からは子どもたちによる子さぎおどりも始められ、そのかわいらしさにも人気があり、祭りを一段と華やかなものにしています。昭和36年(1961)6月県の無形民俗文化財に指定されています。

標高362mの霊亀山上に築かれた中世の山城跡で、津和野の町を展望するのに最適の場所です。なだらかな青野山の山すそに広がる家並みと、その中をゆるやかに流れる津和野川を一望できます。城跡の石垣が朝霧に浮かぶ姿は、まるで「天空の城」です。紅葉の時期もおすすめです。
太鼓谷稲荷神社の参道からリフトを降りて徒歩20分で頂上に到達します。現在は建造物は何もありませんが、石垣はほぼ完全な形で保存されており、石組の堅固さ雄大さは比類のないものです。
吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間の後は、明治維新まで亀井氏が11台225年にわたり城主として 在城しました。貞享3年(1686)に落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体されました。

隠岐に流された速了和尚が京都から大般若経典を取り寄せたもので、600巻あります。村民により長い間「転読行事」で守られてきた貴重な文化遺産であり、全経典を収蔵しています。

奥出雲で古代から現代に至るまで操業されている、たたら製鉄では、原料として砂鉄が用いられます。その砂鉄は特に近世以降を中心として、砂鉄を含む山を削り、水流によって比重の重い砂鉄を留め選鉱する技術、鉄穴流し(かんなながし)によって採取されました。
羽内谷鉱山鉄穴流し本場設備は、上流の山で削られた土砂を流し込み、砂鉄を選鉱する設備で、全国最後となる昭和47年(1972)まで稼業された遺構として貴重であることから、奥出雲町指定有形民俗文化財となっています。
鉄穴流しは、かつて奥出雲の各地で行われ、砂鉄採取跡地は棚田になっていますが、この遺構は、たたら製鉄と棚田の関係や、鉄穴流しの技術を理解する上で欠かせないものです。

 西周旧居と津和野川をへだてて向かいあっている国指定の史跡です。森家は代々津和野藩の藩医で、50石どりの家柄でした。鴎外(林太郎)は文久2年(1862)1月19日この家で生まれ、明治5年(1872)11歳で上京するまでここで過ごしました。
 鴎外がこの旧宅に住んだのは、わずか11年であり、その後再び津和野も、この家も訪れることはありませんでした。しかし遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を見ると、彼自身にとって、この家での幼き日々の生活がいかに重要な意味をもっていたか明らかです。
 この旧居は森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたましたが、昭和29年(1954)鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し、現在地に復元しました。
 この旧居も建築以来130年、老朽化が著しいため、昭和59年(1984)秋に解体、全面的に修理されました。昭和44年(1969)に国の史跡に指定されています。

出雲大社から車で約20分です。灯台の高さは43.65m、海面からの高さは63.30mで日本一です。
青空に白亜の灯台はコントラストも鮮やかに映えます。
灯台の上は展望台となっていて、目の前に日本海が広がり、晴れた日にははるか北方に隠岐島が見える事もあり、さらに南の山々が連なる360度のパノラマ風景を楽しむことができます。
島根半島の最西端、日本海につき出た岬の先端にあり、夕日の眺めは素晴らしく絶景です。また日が暮れてからの夜釣りの漁火もとてもロマンチックです。
すぐ近くにはウミネコの繁殖地である経島もあり、日本海の海食をうけた奇岩絶壁が続きます。
世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選に選定されています。

宍道湖と中海を結ぶ大橋川沿いの南側丘陵、ひがし東光台にある古墳時代中期の大型方墳。規模は一辺40m、高さ7.5m、丘陵を削って造った空濠(からぼり)を加えると南北は70mにも及ぶ。墳丘は二段築成で葺石があり、円筒埴輪(えんとうはにわ)がめぐらされている。また、墳丘に造り出しがあり、人物、馬などの形象埴輪(けいしょうはにわ)がたてならべられている。この古墳は山陰地方では最大規模を誇る。国指定史跡。

 馬木不動尊と神戸川をはさんだ反対側の山麓に築かれた径十数mの小規模な古墳である。内部主体は切石造りの横穴式石室であり、出土土器から6世紀末に属すると推定される。

 この古墳が注目されたのは、玄室内に火葬を物語る石櫃(いしびつ)(火葬骨を入れた蔵骨器を収納する容器)が存在することによる。この石櫃に伴う遺物としては蕨手刀(わらびでとう)(柄が蕨のうずまきの文様。同種の刀は正倉院にも現存する)と須恵器(すえき)があり、時期は奈良時代に属す。

 このために前代の古墳を火葬墓として再利用したと推測されるが、このような例は稀である。また、この地方における火葬墓の初源を知る上でも貴重な資料である。県指定史跡。

 大森の代官所跡から銀山川に沿って10分ほど歩き、川を渡って左手の竹藪を分け入った大安寺跡に、初代大森銀山奉行大久保長安の墓碑がある。

 長安は慶長6年(1601)この地に着任し、銀山領の検地をはじめ道路、町並みの整備を進め、間歩(まぶ)(坑道)の発掘により銀の生産高を飛躍的に増加させた。大久保間歩は銀山最大規模の坑道。また配下にあった山師安原伝兵衛発掘の釜屋間歩は、年間3,600貫を上納したといわれる。長安は後に佐渡、伊豆など全国の金銀山総奉行となり、武州滝山3万石に封じられた。慶長18年(1613)駿河で病死したが、家康は長安に不正があったとして葬儀を中止し、 7人の子を死罪とし、財産をことごとく没収した。

 寛政6年(1794)、事績を顕彰して紀功碑と五輪墓が菩提寺である大森町大安寺に建てられた。大安寺は現在建物は残っていない。

八尾川平野の奥まったところにある小丘陵端につくられた古墳で、隠岐島最大の前方後円墳である。

古墳のあるところにちょうど平神社が祀られている。この古墳の全長は47mあり、破損しているが、自然石あるいは割石積みの横穴式石室を内部構造とする。墳丘は2段築成で、葺石や円筒埴輪が認められる。億岐島内の前方後円墳は10基ほど知られるが、いずれも6世紀代になってから築かれたようである。昭和44年(1969)5月に県指定史跡になった。