出雲国風土記


『出雲国風土記(いずものくにふどき)』は、
733年(天平5)に完成した、
ほぼ完本の形で今日に伝わる唯一の「風土記」です。

「風土記」は713年(和銅6)に、風土記の編纂命令が
諸国に下されました。

その命令は、
 (一)諸国の郡郷の名に「好字」をつける
 (二)郡内の産物の品目
 (三)土地の肥沃の状態
 (四)山川原野の名の由来
 (五)古老(ころう)が伝承している旧聞異事
 以上を史籍に記載して、提出しなさい。

この「諸国の郡郷の名に好字をつける」とは、
郡郷の名を漢字二字の嘉字(かじ)に改める命令です。

例えば、『古事記』に「肥(ひ)川」とある川は、
『日本書紀』では「簸(ひ)川」と表記されていますが、
『出雲国風土記』では「斐伊(ひい)川」とあります。

その川の流域である「斐伊(ひい)郷」は、
『出雲国風土記』では、726年(神亀3)に
郷名を「樋(ひ)」から「斐伊」に改めた、とあり
漢字一字から二字に改めたことがわかります。

こうした「風土記」の多くは、
経年のうちに散逸し、現存する風土記は、
出雲(いずも)・常陸(ひたち)・播磨(はりま)・
豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)の「五風土記」です。

また、『釈日本紀(しゃくにほんぎ)* 』など
後世の書物に引用される形式で残る風土記は
「風土記逸文」と言われています。

こうした「風土記」のうち
『出雲国風土記』のみが「ほぼ完本」で、
編纂者、完成年月日がわかる「風土記」となります。

「ほぼ完本」というのは、
平安時代に編纂された
『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)* 』に
「多久郷(たくごう)」や「千酌郷(ちくみ)」がみえ、
『出雲国風土記』にない神社名が
『延喜式(えんぎしき)* 』にみえること、
また『出雲国風土記』島根郷(しまねごう)条に
「朝酌下社(あさくみのしもしゃ)があるのに、
「朝酌上社」がみえないこと、
などから一部欠落がある、と考えられているためです。

しかしながら、末尾には「五風土記」のなかで唯一、
編纂者や完成年月日が記されており、
出雲国造(いずものこくぞう)で
意宇郡(おうぐん)の郡司(ぐんじ)であった
出雲臣広島(いずものおみひろしま)など
在地の郡司が編纂に大きく関わっていていることが
わかります。

中央から派遣された国司(こくし)ではなく、
在地の有力者が編纂に関わったことで、
より充実した内容の「風土記」となっており、
日本古代の地方の行政や交通を知る上で重要な史料と
なっています。

なかでも、『出雲国風土記』の地名の由来のなかに
出雲に伝えられていた神話が記されているのが特徴で、
スサノオやオオクニヌシの神話のように、
『古事記』や『日本書紀』とは異なる内容の神話があったり、
ヤツカミズオミヅヌの「国引き」のように
『古事記』や『日本書紀』には記されていない
神話があります。

こうした神話は、一般に「出雲神話」と呼ばれていますが、
『古事記』『日本書紀』の物語だけでなく
『出雲国風土記』の物語をも比較することで、
古代日本の各地に伝えられた神話の多様性や奥深さを
学ぶことができます。


1300年前の、歴史・風俗・習慣などが盛りだくさん

713年に『風土記』作成の命が出されました。国ごとに出されたその命令には、「①地名に良い名をつけなさい」「②土地の産物をあげなさい」「③土地の良し悪しを記しなさい」「④地名の由来を述べなさい」「⑤古老の伝承を書き記しなさい」という5項目のことがらが要求されていました。これにのっとって、733年に出雲国で編纂されたのが『出雲国風土記』です。命令が出てから、ちょうど20年かかって作られたわけです。
全国60あまりのそれぞれの国で『風土記』が作られたと思いますが、長い年月のうちにその多くは失われてしまい、現在かろうじてまとまった内容を伝えているのは、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後のわずか5カ国しかありません。その中でも、『出雲国風土記』は内容的にそのほとんどが残されていて、とても貴重なものです。つまり、私たちは『出雲国風土記』によって、8世紀前半の出雲の様子をずいぶんと知ることができるのです。『出雲国風土記』は、その名からわかるように風土を記したもの、つまり地誌ですが、そこには出雲の歴史、人々の風俗や習慣などさまざまな事柄が記されています。こうしたことがわかるのは、すべて『出雲国風土記』のおかげなのです。

ユニークな『出雲国風土記』

『出雲国風土記』の中にある興味あふれる神話を見てみましょう。そこには天下造(あまのしたつく)らしし大神とたたえられるオオナモチ(オオクニヌシ)の世界が展開されています。しかし、オオクニヌシの因幡の白ウサギやスサノオのヤマタノオロチ退治といったよく知られた神話はまったく記されていません。また神社の数が399社と明記されているのもユニークです。8世紀初めの段階で、一つの国にいくつ神社があったかがわかるのは出雲だけです。
一般の『風土記』がその国の役人である国司によって編纂されたのに対して、出雲の場合には出雲国造(現在の出雲大社の両国造家の祖先)によって作られているのも見逃せません。そのため、『出雲国風土記』には、『古事記』や『日本書紀』と比べると、より地元の目線で書かれていると言ってよいでしょう。