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東京から一番遠い「有福温泉」で、“火の暮らし”を学ぶ旅

平下 茂親

“東京から一番遠い温泉街“「有福温泉」が、いま面白いことになっています。この辺境の温泉街で、新しい旅の形を創造するのが、平下茂親さん率いるデザイン集団SUKIMONOです。平下さんが提案する、「親子で火の暮らしを学ぶ」旅とは?

辺境の温泉地が、町ごとリブート

島根県江津市はかつて「東京から一番遠いまち」と高校の教科書に記載されたことのある地。鉄道を乗り継いで行くと首都圏から最も時間がかかることがその理由。そんな江津市の山の奥に位置する「有福温泉」が、“東京から一番遠い温泉街”と呼ばれる所以もそこにあります。現在では、交通も進化し、有福温泉までは萩・石見空港から車で1時間ちょっとでアクセスできるようになりましたが、都会から離れた非日常感は健在です。

有福温泉の地域住民は約80名。こぢんまりした可愛らしい温泉街です。ゆっくり歩いても30分足らずで一周できる規模感ですが、あなどるなかれ。3つある公共浴場を中心に、コンセプトホテルやゲストハウスや一棟貸しの宿が並び、さらにはイタリアンレストランにワインバー、キッチン付きのイベントスペースまで。こうした新しい店舗や施設ができたのはこの数年です。

有福温泉は1400年近い歴史を持つ由緒ある温泉地で、全盛期は1960年台。当時は年間約30万人が訪れ芸妓さんがそぞろ歩くほど、人気の観光地でした。ところが近年は人口減少や高齢化の影響もあり、かつての活気は失われつつありました。そこで2021年、町全体を再起動させるプロジェクトがスタート。空き施設を再生させた新事業がつぎつぎ立ち上がり、生活文化や教育などクリエイティブに関心のある層を中心に、人々の注目を集めはじめているのです。

案内人・デザイン集団SUKIMONO平下さん

変わりゆく有福温泉の仕掛け人であり、町のプロデュースを手掛けるのがデザイン集団SUKIMONOです。代表の平下茂親さんはニューヨーク修行を経て地元江津市でSUKIMONOを設立。建築デザインを軸に、宿泊施設の運営やアート・教育事業など多方面で活躍中。ちなみに当メディアでも紹介した益田市のMASCOS HOTELの内装デザインや、温泉津町の地域プロデュースもSUKIMONOの仕事です。

平下茂親
島根県江津市出身。溶接工や建設業に従事したのち専門学校で宮大工、大阪芸大で設計を学び、渡米。ニューヨークの家具製作会社に勤務。2011年に江津市にUターン、Design Office SUKIMONOを設立。家具職人、大工、設計士、ファブリックデザイナーなどを擁するものづくり集団を率いる。

「人口が減っていく社会で、むやみに新しいものを作って購買意欲を刺激することはしたくないんです」と平下さんは言います。SUKIMONOのものづくりには、地域の資源にどうやって新しい価値を生み出すか、という工夫が通底しています。ちょっと寄り道してSUKIMONOオフィスの様子をご紹介します。

江津市のSUKIMONO本社を案内してくれる平下さん。

古い店舗のスツールをベースに作られたオリジナル家具。「元の構造を利用するので比較的安価に作ることができます」と平下さん。一般の方も購入可。

地域の古民家から出た家具を利用して制作したスピーカー。

廃業した店舗や古民家などの廃材が、SUKIMONOのものづくりの資源。

一過性の消費より持続的な再生、というSUKIMONOの哲学は有福温泉の地域プロデュースにも生かされています。有福温泉でSUKIMONOが運営するのは、廃屋を再生したホテル「Showcase Hotel KASANE」、長期滞在しやすいドミトリーを備えた宿「ロイノハコ」と、旅人と地域の人が集うイベントスペース「ロイノキッチン」。

そして2025年、満を持して立ち上げた新プロジェクトが「SUKINOYA 明暖(ANON)」を拠点とする、親子での火のある暮らし体験です。

SUKIMONOが運営する新施設「SUKINOYA 明暖(ANON)」。古民家を再生させた一棟貸しの宿。設計や施工はもちろん、内装デザインや地域の木材を再生させた家具までSUKIMONOのオリジナル。

温泉街で火の暮らしを学ぶ宿

ANONは古民家をリノベーションした一棟貸しの宿。地域の廃材や古材を生かしたモダンな内装は、一見すると今風のデザインホテルのようにも見えます。しかし、ANONにはリゾートホテルや高級旅館のような至れり尽くせりのサービスはありません。

「薪の火を使って炊事や入浴を、滞在するゲスト自身が体験できるのが特徴です。ガスも電気も通っていますが、囲炉裏で料理をすることも薪で焚いた風呂に入ることもできます。ゲスト自身で工夫しながら火に根ざした田舎暮らしの魅力を体験してほしいです」

ANONにはテレビがなく、かわりに親子で楽しめる本が並んでいます。エアコンを設置していますが、暖房は芯から温まる薪ストーブが心地いい。ガスコンロもありますが、かまどで炊いたお米の味はやはり格別。お風呂はガス給湯もできますが、ぜひ薪火の暖かさも知ってほしい。

石見伝統の赤瓦屋根と、煙の立ち上る煙突がANONの目印。

お風呂には薪火で暖められる五右衛門風呂を設置。

天井材に使われている装飾的な木の板は、閉店した商業施設から譲り受けた素材を再生させたもの。

手を動かし生活をつくる体験がANONの設えには組み込まれています。火を焚いて、ご飯を炊き、お湯につかる……生活の出来ごとひとつひとつが、ここでは創造的なチャレンジに。それは都市的な消費や購入という身ぶりや、ボタンひとつでなんでも叶う便利さから、離れてみることも意味します。

取材時にANONに滞在していた木下さんご家族。お風呂用の薪をくべる様子。

「わからないことや、初めての体験に出会う時、人は考えますし工夫しますよね。わからなさは、創造性や生活の楽しさに触れるきっかけです。それに、地域の方に火の扱い方を教わることもできますから、不慣れな方でも大丈夫ですよ」

この日の夕食は囲炉裏での鍋料理と、かまどと羽釜で焚いたご飯。食事もゲスト自身が調理します。かまどに火を入れ、薪の燃える香りを楽しみながら、炊き上がりを待つ。ここでは、ゆっくりと流れる暮らしの時間が、何よりの楽しみになります。

「食べて、読んで、眠る。そうしたシンプルなことに時間をかける喜びを感じてもらえたら嬉しいですね」

部屋全体を暖める薪ストーブ。天面ではお湯を沸かしたり簡単な調理も可能。

煙突から立ち上る煙がANONの目印。

この日の夕食は「サバの煮食い」。すき焼きの肉の代わりにサバを使う郷土料理です。

かまどでの炊飯は火加減が重要。「もし失敗しても、また明日挑戦しようと思えます」と木下さん。

保育園留学で火と自然に親しむ

ANONのおすすめの過ごし方は、親子やファミリーでの長期滞在だと平下さん。というのも「保育園留学」という、こども主体の地域の暮らし体験の制度を利用すれば、地域の保育園と連携しながら、1週間〜2週間の親子や家族での滞在が可能になるからです。

保育園留学では、こどもたちは森の中の保育園に通い、自然や火に触れ合って過ごします。大人はその間、宿で仕事をしたり旅を楽しんだりと自由に過ごせます。こどもの教育体験と大人のワーケーションをかねて訪れる家族も多いそうです。

保育園留学でこどもたちを受け入れるのが「里山こども園わたぼうし」。デンマーク発祥の「森のようちえん」のスタイルで自然の中で幼児教育を行っています。

盆子原園長と平下さん。保育園と宿泊施設が連携して自然に親しめる環境は全国でも貴重。

園庭にはドラム缶風呂やピザ窯もあり、遊びかたはこどもたち次第。森を探検したり、川に釣りに出かけたり、畑で育てた芋を焼いたり。カリキュラムはなく、こどもの動機にあわせて日々の活動を行うことが園の方針です。

「ANONはじめ宿泊施設と連携して、教育と観光が一体になった取り組みを行っています。お子さんを預かりするのは平日の朝から夕方。うちは0歳のお子さんからお預かりできます」と園長の盆子原さん。

「冬は園庭で焚き火、夏は川遊びが人気です。一緒に参加される親御さんもいらっしゃいますよ。2週目には自分で火をつけるようになるお子さんも。リピーターの方や海外からいらっしゃるご家族も多いです」(盆子原園長)

薪火で温めるドラム缶風呂。

保育園は森や川のすぐそば。自然豊かな立地。

ピザ窯。畑や山で収穫した作物を載せてピザを焼くことも。

こどもたち自身で収穫した柑橘を漬け込んだ容器が。

公衆浴場で地元の人と交流する

こどもが保育園に行っているあいだは、大人は自由時間。宿や近隣のコワーキングスペースで仕事に打ち込んでもいいですし、気分転換に温泉街をぶらつくのも素敵です。そこで、有福温泉のおすすめスポットをご紹介します。

「御前湯」は3つの公衆浴場で最も湯の温度が高い。泉質は無色透明な単純アルカリ泉。「一番風呂が人気で、朝は賑やかな社交場になりますよ」とは地域の方の談。

まずは温泉は外せません。有福温泉は1370年前から続く美肌の湯として知られ、3つの公衆浴場が点在します。それぞれ湯温が違うので好みの場所を探すのも楽しいもの。

温泉は地域の方にとっては生活の湯で、公衆浴場は社交場でもあります。湯船に入れば「今日は熱いねえ」と世間話が始まり、上がる時は「お先に」と声を掛け合う。旅人はそうした地元のムードの中にお邪魔することに。

消費的な旅に飽きた人には、お風呂の世間話みたいな素朴な時間がうれしいものです。「1300年、お湯に浸かっておしゃべりばかりしてます。世間話が終わらないの(笑)。それが田舎のめんどくさくて、いいところね」と番台さんが笑っていました。

ワインバーで湯上がりの一杯

お風呂上がりにはワインバーがおすすめです。「グラン・ヴァン」はソムリエが選ぶワインや島根の日本酒がグラスで飲めます。この日いただいたのは地元江津市の酒蔵「都錦酒造」の日本酒。ワイングラスで飲んで美味しいものをいただきました。

ちなみにお店のオープン時間は午前10:00。早くにお店を開くのは「宿をチェックアウトして行き場所がない方がいたら困るでしょう」というオーナー川中さんの思いから。おみやげも販売していますから、風呂上がりならずとも立ち寄りたいスポットです。

「イタリアンレストラン有福BIANCOからおつまみが出前できます」とオーナー川中さん。

イベント目白押しの週末

取材の日、夕方から食べ歩きイベントが。また、約200年の歴史を持つ老舗「三階旅館」ではeスポーツのイベントが開かれこちらも大盛況。さらに神楽殿からは、賑やかなお囃子の音が聴こえてきます。週末には夜市や朝市が立つなど、温泉街の至る所でさまざまな催しが開かれています。

2025年に正式オープン予定のそば店「椿庵」。取材日は食べ歩きイベントのため特別にプレオープン。

こうした多彩なイベントが、小さな温泉街で一斉に起こるのですから、町を歩けば自然に出会いが生まれます。「昨日お風呂で一緒でしたね」なんて立ち話が盛り上がることも日常茶飯事。1週間、2週間と滞在すれば、顔見知りが増えていきます。

「地元の人と交流しながら、暮らしを体験してもらえたら嬉しいです」と平下さん。「県外で暮らす方が訪れれば、地元の良さを再発見するきっかけになるかもしれません。そうやって人がつながっていけば、住人も旅人も楽しいですよね」

演歌の音に誘われて扉を開くと日曜の朝市が。地域で採れた新鮮な野菜や、手作りのお寿司やお惣菜を販売。

“ないこと”が、クリエイティビティを育む

有福温泉にはスーパーもコンビニもなく、賑やかな飲み屋街もありません。ドラマの舞台になった神社も、全国から人が訪れるパワースポットもなし。ここでは消費的な観光旅行はできません。

でも、自然や人とつながった素朴な暮らしこそが一番の魅力と考えれば、過度な開発がされていないことは美点になります。買えるものが限られているから自分で料理する。夜に飲み歩く場所がないから、宿でゆっくり本を読む。平下さんは、規模が小さいことは、むしろ強みだと言います。

「50メートル規模の小さな町です。だからこそ人がつながりあえます。面白い催しや場所があれば人が集まりますし、人がまたつぎの人を呼んでいく。小さいからこそ、有機的なつながりが育ち大きな変化が起こせるチャンスがあるはずです」

自然を歩き、火を眺め、お湯に浸かる。ささやかな発見や考えごとに時間を与え、話をする。都会的なスピードや便利さから離れる旅は、そうしたシンプルな喜びに触れるきっかけになります。それは有福温泉が「小さくて遠い」からできる、暮らしを見つめ直す時間かもしれません。

「観光でも移住でもない関わり方ができるのが、この場所の魅力です。いきなりフルで田舎暮らしにシフトするのはハードルが高くても、1〜2週間の滞在なら現実的です。温泉街という非日常性も、他にないユニークな経験になるはず」

有福温泉では、暮らしこそがクリエイティブな遊びだということが学べます。それは大人にとっても成長の時間ですし、こどもにとっては人生を変える原体験になるかもしれません。

宿泊や滞在プランの詳細はSUKIMONOのホームページよりお問い合わせを。消費する旅から学び作る旅へ。石見でそんな体験をするのはいかがでしょうか。

さらに!

編集部がみつけた有福温泉みやげ

出会えたらラッキーな「福屋みそ」

地域に伝わる、無添加と手仕込みの米味噌は、強い甘みが特徴。2023年に造り手の高齢化から製造中止が決定したものの、地域に縁ある20代の若手たちが事業の引き継ぎを決意。味噌づくりのため関東から移住し奮闘中。現在は製造量が限られる希少なもので、イベントなどでの限定販売。

地元の米で造る「都錦酒造」の日本酒

自然な造りにこだわる地元江津市の酒蔵「都錦(みやこにしき)酒造」による日本酒「錦樹」シリーズ。原料は島根産米100%。写真の「黄朽葉(きくちば)」は、色づき大地に還る落ち葉を思わせる奥ゆきある風味。温泉街のワインスタンド「GRANDS VINS(グラン・ヴァン)18区」で購入。

この記事で登場した場所

SUKINOYA 明暖(ANON)

島根県江津市有福温泉町720-1
Instagram https://www.instagram.com/sukinoya_anon/

SUKIMONO(ショールーム)

島根県江津市浅利町166-2
https://sukimono.co.jp/

里山子ども園わたぼうし

島根県江津市跡市町625-1
https://wataboushi52.tumblr.com/

保育園留学については以下サイトもご覧ください。
江津市 保育園留学 https://reserve.hoikuen-ryugaku.com/destination/shimane/gotsu/wataboushi

GRANDS VINS 18区 有福店

島根県江津市有福温泉町 1123-2
https://www.eventos.co.jp/store/detail?id=453

御前湯

島根県江津市有福温泉町710 ·
https://www.kankou-shimane.com/destination/20735

Photography Yuri Nanasaki  
Edit&Text Masaya Yamawaka

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