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フジナハンガンノハカ

富士名判官の墓

県道沿いの集落の南裏に、判官山と呼ばれる小丘があり、中腹に富士名義綱の墓と伝える五輪塔、頂上に石碑が建っている。石碑は明治31年(1898)の建立で、山県有朋篆額、福羽美静の撰文が刻まれている。

義綱は布志名地方の地頭であったと考えられ、後醍醐天皇の隠岐配流に際し、守護塩冶高貞の命により、行在所警護のため渡海したが、逆にかの地で天皇に接近、脱出計画に参画した。脱出した天皇が船上山(鳥取県赤碕町)に挙兵するや、義綱は高貞とともに馳せつけた。建武中興後は恩賞として若狭守護に任じられたが、建武3年(1336)1月、京都で足利尊氏軍と戦い戦死した。義網の墓から谷を隔てた丘陵には、義綱の居城のあった福王寺畑と称する1,000平方メートルばかりの平地が残っている。

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