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齋藤茂吉歌碑

アララギ派の歌人として知られる齋藤茂吉は、歌聖といわれる万葉歌人、柿本人麻呂の終えんの地探求のため昭和5年(1930)から昭和23年(1948)まで7回にわたって石見地方を訪ね、人麻呂終えんの地を美郷町湯抱の鴨山とした。昭和12年(1937)鴨山を実地踏査して「人麿がつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ」と詠んだ。この地はその後、戦争の激化で地元の人々からほとんど忘れられていたが、戦後、粕淵町(現美郷町)長の依頼で茂吉みずからが病床の身をおして筆をとり、この歌をしたためた。しかし歌碑の建立は場所の選定などで遅れ、茂吉が亡くなった昭和28年(1953)(茂吉は2月25日死去)の4月29日建立された。茂吉がここを終えんの地としたのは、『万葉集』巻二に「柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとするとき、自ら傷みて作る歌一首」という前書付で載っている「鴨山の磐根(いわね)し枕(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」という辞世の歌と、同じく『万葉集』にある人麿の石見国での妻依羅娘子(よさみのおとめ)の挽歌「今日今日(けふけふ)と吾(わ)が待つ君は石川の貝(かひ)に交(まじ)りてありといはずやも」(224)「直(ただ)の逢(あひ)は逢かつましじ石川に雲立ちわたれ見つつ偲(しの)ばむ」(225)の歌から推理したもので、人麻呂が死んだのは鴨山というところ、その鴨山は石川という川のほとりにあると考えた。石川は石見川で「雲立ちわたれ」というぐらいだから大きな川である。また「石川のかひ」は「石川の貝」ではなく「石見川の峡(がい)」であるとして、石見地方で山峡を流れる雲の立ちのぼるような川は江の川しかないと考え、昭和12年(1937)、同地に住む苦木虎雄青年の手紙をヒントに湯抱の鴨山を選定した。しかし齋藤鴨山説には現在なお異論があって、研究家の興味ある課題となっている。

町では、鴨山探索に情熱をそそいだ齋藤茂吉の偉業を顕彰するとともに、人麻呂終えんの地「湯抱の鴨山」を広く伝えるために、平成3年(1991)5月に「齋藤茂吉鴨山記念館」を開館した。

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