2024年03月25日 公開
日本遺産「中世日本の傑作 益田を味わう−地方の時代に輝き再び−」に認定された歴史文化の香り高い益田市を訪ね、雪舟ゆかりの地「萬福寺」「医光寺」と、石見の夜神楽公演で躍動感あふれる「石見神楽」を鑑賞。レポとして紹介いたします。(2022年6月取材)
閑静な住宅の中に静かな威厳を醸し、佇む萬福寺。門をくぐると広い境内と趣ある姿形の本堂が気持ちを静かに落ち着かせてくれます。
変遷を経て、慶安7年(1374)に、益田七尾城11代城主・益田越中守兼見(かねはる)公により現在の地に建立された萬福寺。文明11年(1479)には15代益田越中守兼暁(かねたか)公により画聖「雪舟」が招かれ、石庭(雪舟庭園)が造られました。貴重な木材で造られた外壁や本堂の柱などとても素晴らしく、他の寺院では見ることのできない造り(鎌倉様式・七間四面、九重造り)になっています。
中に入るととても重厚な空気が漂い、その造りや装飾につい見入ってしまいます。「龍虎鷹鍾馗図」板絵をはじめ、様々な宝物もあり、別室には釈迦如来が往生者を送り阿弥陀如来が迎える図「二河白道図(国重要文化財)」も見ることができます。それらの宝物のほかにも、柱には第2次長州征伐・益田口戦争(石州口の戦い)の際の弾痕の跡が残っていたり、長年の様々な痕跡が、この寺の歴史とともに形として残されています。
本堂の裏手にある石庭は、文明11年(1479)、画聖雪舟等楊禅師により造られた、須弥山世界(仏教の世界観)を象徴したものです。益田七尾城15代城主、益田兼尭(かねたか)公が雪舟を招き、造らせました。(雪舟が念願の中国留学を終えた後の、60歳の頃といわれています。)
本堂にお参りした後に見る庭園はとても心が清められ、しっとりと瑞々しい新緑からは、500年以上の時の巡りの生命力を感じ取れます。無駄のない石のくばりは、巧な地割と調和し、侘び・寂びの美が目の前にありました。
高貴な紫色に咲く菖蒲(しょうぶ)、艶やかな紅色の躑躅(つつじ)が凜と咲いて、庭園に水無月らしい、しっとりとした色添えを覗かせていました。訪れる度この庭から、四季折々に様々な景色や印象・心象を、わたしたちに受け取らせてもらえるのではないでしょうか。
石庭を造り、五百年以上経った今、雪舟の思いは今も尚益田の地で、受け継がれています。
右は深みのある築山で枯滝をもち、左は平坦で一際明るく、明と暗を巧みに使い分け、須弥山世界(仏教の世界観)を象徴し造られました。画聖として名の知れた雪舟が500年以上前に益田の地・萬福寺に描いた庭園作品を、ぜひご覧ください。
訪れると大きな戦国門が目の前に。益田市染羽町の住宅町に突如として現れるこの構造物は、益田七尾城の大手門で、関ヶ原の合戦後に移築された歴史の深く刻まれた門です。その奥に見える医光寺は、臨済宗東福寺派の寺院で、薬師如来を本尊とする由緒ある寺院です。貞治2年(1363)、前身 崇観寺(すうかんじ)として益田氏の保護と援助を受けて大変栄え、文明10年には画聖「雪舟」も訪れ、石庭を造りました。現建造物は享保14年(1729)の大火の後再建されたものです。
本堂の中はとても明るく柔らかい日差しが入り、ご本尊・薬師如来が端正な表情で、広く世間を見つめられています。その横には涅槃図(ねはんず)と呼ばれる、お釈迦様がお亡くなりになられる時の情景を描いた大きな絵図が飾られています。この絵画を目にすると、様々な事柄や悲しみの中から生まれ育まれる「気持ちの原点」に立ち返ることのできるような気がします。
建物内には、開山堂をはじめ、随所に宝物・絵画などが展示・収蔵してあり、ゆったりと中世・戦国益田の足取りを辿ることができます。武将の世と人々の気持ちを静める寺院の存在、当時の人々、そして現在・・・そんな思いを馳せながら。
文明10年(1480)、画聖雪舟等楊禅師により造られた医光寺の雪舟庭園。「鶴亀」を主体とした武家様式で、鶴を模った池の中に亀島を浮かべているのが特徴です。
訪れたのは梅雨最中の水無月、池にできる波紋と瑞々しい新緑の中で聞こえる蛙の鳴き声を感じながら、回廊を進み庭園を眺めます。しだれ桜の葉や紅葉の葉・つつじの葉・山肌の木々の葉・地の苔と、若い緑や池の深い緑が様々な階層を生み出し、無機色の石の配置、バランスを際立たせています。
雪舟の教えは「以心伝心」。無心で造ったこの石庭に侘び・寂びの心が残されています。益田の地でこの世を去った雪舟の思いは、四季を巡る「植物」、形の変わることのない「庭石」、天地巡る「水」が当時のままを形作り、今後も生き続けていくことでしょう。
室町時代、名だたる水墨画家・雪舟が造った石庭「雪舟庭園」。
吉兆の代名詞である「鶴亀」を主体とした池泉鑑賞半回遊式の見事な庭です。この益田の地で終焉した雪舟が無心で描いた庭園作品を、ぜひご覧ください。
-先ずは岩戸のその始め、隠れし神を出さんと、八百万の神遊び、これぞ神楽の始めなる-
天上界高天原を治める天照大御神(あまてらすおおみかみ)に対し、須佐之男命(すさのおのみこと)が多くの悪戯をし、大御神は天の岩戸に閉じこもってしまいます。これにより世の中が常闇となり、八百万(やおよろず)の神が困り相談を重ね、大御神を岩から連れ出す様子を神楽化したものです。
石見神楽上吉田保存会の得意演目の一つ、「岩戸」。特に若手団員が力を入れている演目で、抑え気味に舞う ※兒屋根・太玉、潤しい宇津女、男らしく勇ましい手力男と、それぞれの配役の演じ分けが功を奏し、この演目らしい一体感を上吉田の舞いで表現していることが、客席にも伝わります。最後の喜びの舞いは、万民の弥栄(いやさか)を祈るもので、晴れ晴れしく歌を口ずさみながら舞う姿が、とても印象的でした。
「これぞ神楽の始めなる」宇津女命が、岩戸の前で踊ったことが神楽の始まりとされ、天照大御神と八百万の神を楽しませた事から『神楽』といわれています。
※兒屋根命(こやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)、宇津女命(うづめのみこと)、手力男命(たちからおのみこと)
石見神楽上吉田保存会の得意演目の一つ、「岩戸」の映像をぜひご覧ください。(映像は冒頭に「喜びの舞い」を配し、脚色を加えています)。
-こち吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ-
平安朝、天穂日命(あめのほひのみこと)の後継である菅原家に生まれた菅原道真(すがわらのみちざね)は、歌人としても名が立ち、文武に優れ、光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇と三代の帝に朝廷で仕えるほどの秀才でした。
醍醐天皇に右大臣に命じられ、学者として異例の出世を果たしますが、勢力の強い藤原氏の一族、左大臣 藤原時平(ふじわらのときひら)の妬みにあい、讒言(ざんげん)により、九州太宰府へと左遷され、その地で生涯を終えます。
後に藤原時平が落雷により命を落とし、その雷が菅原道真の怒りである逸話が残り、道真の思いを果たす物語として天の神「天神」として神楽化され、古くより石見地域で演じ続けられています。
上吉田保存会による天神は、道真の清楚な面・白い衣裳・舞姿が特徴的で、随身※(ずいしん)の忠誠を示す連れ舞いと、荒々しい時平の登場などが展開され、最後の合戦は手に汗握るものでした。石見神楽の中で役舞※として特別視される演目「天神」の堂々とした上演でした。
※随身=朝廷から太宰府へと道真を護衛する官人(又は析雷〈さくいかづち/別名 火雷大神〉とも)
※役舞=村里の祭りで必ず演じる、大切な役割を持つ演目
上吉田保存会による、風雅な道真の神舞い、荒々しい時平の舞いのコントラストと、手に汗握る決戦の様子を7分の動画に圧縮しお届けします。
毎週土曜の晩、益田神和会11団体で順番に上演し神楽を披露する、石見の夜神楽益田公演。この日担当の石見神楽上吉田保存会代表者、上角正憲様に貴重なお話を聞かせていただきました。
◎取材協力
萬福寺様、医光寺様、石見神楽上吉田保存会様、益田市観光協会様