イワミギンザンイセキ

観光スポット

石見銀山遺跡

Ginzan0907

<概要>
2007年7月に世界遺産登録された銀鉱山遺跡。
16〜17世紀の約100年間には大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われた。
また海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担った。
17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられてる。
当時銀鉱石を採掘していた、横穴式坑道の「間歩」が一般公開されている。

<詳細>
 石見銀山遺跡といえば大森町一帯および南にそびえる多くの銀鉱を産出した仙(せん)ノ山(標高537m)、その北西の山吹城跡のある要害山(標高416m)および周辺一帯がそれだが、このうち特に重要なものとして仙ノ山の大久保間歩(まぶ)、釜屋間歩と五つの間歩(新切、福神山、龍源寺、新横相、倉本)に代官所跡、山吹城跡、銀山開発に功績のあった初代奉行大久保石見守、安原伝兵衛の墓および銀山関係者から格別の信仰のあった佐毘売(さひめ)山神社などが国の史跡に、また大森町勝源寺にある二代目奉行竹村丹後守の墓など11基の墓が県の史跡に指定されている。間歩とは坑道のこと。また天領代官も九代までは奉行といった。

 石見銀山の始まりは必ずしも明らかでないが、伝説では延慶のころ(14世紀初頭)ここを領していた周防の雄、大内弘幸が守護神北辰星の「石州仙の山に銀を出す」というお告げによって発見したといわれる。お告げはともかく、大内氏はこれで経済基盤を固め中世の動乱期に確固たる政治的立場を築くことができた。山吹城もこのころ銀山の守りとして大内氏によって築かれたものらしい。
 その後、南北朝の争乱のころには石見に下っていた足利直冬(ただふゆ)がここを押え「上鉉(うわづる)の鏈(くさり)を取尽し」たと『銀山旧記』にある。つまり露頭している銀鉱は取り尽くしてしまったらしい。

 こうして銀山もしばらくは人々から忘れられたが、戦国時代の大永6年(1526)再び霊夢によって発見される。この年3月、石見沖合を船で通りかかった九州博多の豪商神谷寿貞がはるか陸地に、闇夜に輝く霊光を見る。船頭に聞くと「あの山は銀峯山(ぎんぷせん)といい、観音霊像を祀る清水寺(せいすいじ)という寺がある。時々こうした霊光が拝めるが、今夜はいつもより10倍も輝いているのは多分あなたが信心深いからだろう」と答えた。そこで寿貞は近くの温泉津(ゆのつ)に船をつけさせて清水寺に参拝、帰りに道で白く輝く石を拾った。これが銀鉱だったので坑夫を呼び寄せてそのあたりを掘ったところ、大量の生銀(せいぎん)(自然銀)が出て来たとの伝説がある。当時ここは再び大内氏の領有となっていたが、以来、近隣豪族の争奪の的となり、享禄元年(1528)いまの邑智郡川本に本拠を持つ小笠原氏がこれを奪ったのを手始めに能義郡富田の尼子氏、芸州吉田の毛利氏らが幾度となく戦火を交じえ、銀山一帯を血で染めた。

 銀山に平和がよみがえるのは関ケ原役(1600)以降で、銀山を重視した徳川幕府はここを直轄領とし慶長6年(1601)初代奉行大久保長安が着任。安原伝兵衛を右腕として探鉱、採掘に当たった。この時代に掘られたのか仙ノ山東麓にある釜屋間歩、大久保間歩などで、中でも大久保間歩は全長870m。入口から100mぐらいまでは高さが3m、幅が2.7mもあり、長安が槍を立てて馬で乗り入れたという豪壮なもの。また釜屋間歩は、「年々3,600貫(13.5トン)あるいは1,000貫、2,000貫を掘出して上納」(徳川実紀)したと伝えられる屈指の坑道で、この採掘の功績で長安および伝兵衛は慶長8年(1603)8月徳川家康にお目通りを許され、家康はそれぞれ石見守と備中の名を与えるとともに安原伝兵衛に、着用していた道服と扇子を与えた。それが重要文化財に指定されている清水寺(せいすいじ)の辻ヶ花染丁字文道服(つじがはなぞめちょうじもんどうふく)と扇子であるという。その後大久保長安は佐渡金山奉行はじめ全国有数の金、銀、鉱山の奉行を兼務、権勢を誇るが、没後、罪を与えられ、一族ことごとく死罪という極刑に処された。

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