– story –
築城工事が難航し、美しく踊り好きな娘が人柱にされてしまいます。ところが城は完成したものの、若い娘が躍るたびに天守が震えるようになり、ついには城下に盆踊り禁止令が出されることになりました。今でも松江城近くでは盆踊りは行われないそうです。
地元では松江城にちなむ怪談は他にも伝わっており、何度も崩れる石垣の下を掘ると、髑髏が出土し丁重に供養。その穴からは澄んだ水が湧き出し「ギリギリ井戸」と呼ばれるようになったといいます。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1850年にギリシャで誕生し、幼少期をアイルランドで過ごしました。
若い頃に両親の離婚や左目の失明など困難の多い人生を送りますが、19歳でアメリカに渡った後、徐々にジャーナリストとして実績を重ね活躍するようになります。
ニューオリンズ時代に見た万博や英訳『古事記』を通して日本文化に魅了され、1890年に来日、松江の島根県尋常中学校・師範学校の英語教師として赴任しました。
八雲は妻セツの助けを借りながら、そこで出会った日本の伝統的精神や文化を、数々の作品として昇華させました。
小泉八雲の妻セツは、1868年に松江藩の士族の名家に誕生しました。生後間もなく同じ士族の親戚の養女となり大切に育てられます。しかし明治維新後士族は没落し、セツの家庭も生活は困窮。
勉強が好きで優秀でしたが、家族のため泣く泣く進学をあきらめ、機織りをしながら一生懸命に家計を支えました。
そんな中、セツは八雲の身の回りの世話をするため住み込みで働くようになり、それが縁となって二人は結婚します。
子どもの頃から物語好きだったセツは、語り部として、またリテラリーアシスタントとして夫の力になっていきます。
私は八雲とセツの曾孫として東京に生まれました。1987年に、神々の気配を感じる湖畔の城下町、松江に魅了されて移住。2016年から小泉八雲記念館の館長をつとめています。
当館は、八雲や妻セツに関する資料を展示・公開する施設です。八雲の没後、松江出身の岸清一博士や八雲の愛弟子たちの募金活動によって、1934年に開館しました。2016年に増床、リニューアルして、展示を一新。八雲の「オープン・マインド」をコンセプトにその人生や事績を解説しています。また直筆原稿や初版本のほか、愛用の机・椅子・衣類などの遺愛品を中心に、百数十点以上を展示しています。
展示を通して当時の八雲とセツの暮らしや人生の足跡をたどり、さらに隣接する小泉八雲旧居をはじめとするゆかりの地を訪ねていただき、二人が愛した古き良き日本の面影を再発見していただければと思います。
館内の様子
八雲愛用の虫かご
展示室
八雲の記憶に残る松江大橋の下駄の響き
霞たなびく幻想的な宍道湖の光景
1890年8月、八雲は「神々の国の首都」と呼んだ松江で暮らし始めます。そこでの生活は八雲の心に鮮やかな記憶として焼き付けられます。
八雲は来日後初めて発表した著書『知られぬ日本の面影』の中で、松江の一日を感慨深く記しています。朝は脈打つような米つきの音で目覚め、続いて響きわたる鐘の音。山々と宍道湖にたなびく朝もや、朝日に向って柏手を打つ姿、そして松江大橋を渡る人々の下駄の音など、五感を駆使して感じた松江の風景が生き生きと描写されています。
偏見のない開かれた精神(オープン・マインド)で人々の日常生活を見つめることにより、八百万の神々が息づく古からの伝統文化や誠実であたたかい人情などの中に、「古き良き日本」の姿を見出したのでした。松江での暮らしは、その後どこへ行っても日本の原風景として八雲の心奥深くに残り続けました。
『知られぬ日本の面影』に登場する鐘の音は洞光寺のもので、八雲はその鐘の音を「仏教ならではの高らかでかつ柔らかい音」と表現しました。
月照寺と並び八雲が好んだ寺で、著書に度々登場します。またイギリス・マレー社発行の旅行ガイドブックに「松江で訪れるべき場所」として紹介しました。
尼子清定公・経久公開基の寺で月山富田城の下にあったものが、松江移城と共に松江へ移転してきました。
八雲は寺町通りに面した数々の寺を訪ね、そこでは「夢見るごとき観音や微笑している地蔵を見つけることができる」と記しています。
八雲はこの寺で、当時の著名な彫刻家・荒川亀斎が作った地蔵を見つけ、感銘を受けました。
その地蔵は罹災により壊れてしまいましたが、復元され、現在小泉八雲記念館に展示されています。
松江藩主から賜った「児守」という名から「こども稲荷」と呼ばれたこの神社の、願掛けの絵や文に興味を持って八雲はよく訪れました。
風呂に入る時や髪をそる時に子がだだをこねないように等、親の素朴な願いが拝殿の扉一面に貼られていました。
遷宮により八雲当時とは位置も向きも異なっていますが、社殿前には今も親や子の願い事を記した紙絵馬が、たくさん貼られています。
松江に到着した八雲は、最初の宿として大橋川沿いの富田旅館(現・大橋館隣)に約3ヶ月間、その後宍道湖に近い二番目の住まいで約7ヶ月過ごしました。しかし、初めて迎えた豪雪の冬に、八雲は体調を崩し寝込んでしまいます。
そんな八雲の身の回りの世話をするため、1891年初め、知人の紹介でセツがやってきました。これが二人の運命の出会いでした。
八雲は島根県尋常中学校と師範学校の英語教師として、1年余り教鞭をとりました。西洋的な先入観にとらわれず愛情をもって接する八雲は、生徒や周囲の人々から「ヘルン先生」と呼ばれ親しまれていました。
後日松江を去る際にこの期間を振り返り、「常に周囲からは変わらぬ優しさ、温かさにふれてきた。間違っても不快な言葉を口にする人は一人としていなかった」と感動をこめて記しています。
八雲は、毎晩和菓子をつまみにビールを飲むことを楽しみにしていたといいます。
当時の松江でビールを扱っていたのは、橘泉堂山口卯兵衛商店(山口薬局)だけでした。
1772年創業で、現在の建物は明治時代中期に建てられたレトロな歴史的建造物。店内には昔の薬箪笥や、蔵から出てきた古い薬瓶・ガラス製品などが並び、まちかど博物館として展示もしています。
八雲の世話をするためにやってきたセツでしたが、困難を通過してきた人生や物語好きなど、互いの境遇や好みが似ていることもあり、二人はしだいに信頼を深めていき、やがて夫婦として生活を共にするようになります。
八雲は、セツが困窮する親族のために懸命に働く孝行な姿や、ともすれば世間から誤解されかねない立場を承知の上で来た覚悟に、心を動かされたのではないかと思われます。
一方セツは、八雲を「ごく正直者でした。微塵も悪い心のない人でした。女よりも優しい親切なところがありました」と紹介しており、その人柄に親しみを感じていたことがうかがえます。
二人は手狭になった大橋川沿いの二番目の住まいから、三番目の住まいである松江城北の武家屋敷(現・小泉八雲旧居)へ引っ越します。
庭のある武士の屋敷に住むことを願っていた八雲は、念願かなってセツと共に約5ヶ月間暮らします。堀端にあるこの武家屋敷を、八雲はとても気に入っていました。学校から帰るとすぐ和服に着替え、座布団に座ってキセルでたばこを吸ったり、食事は箸で食べるなど、何事も日本人と同じように暮らすことを好みました。
「日本に、こんな美しい心あります。なぜ、西洋のまねをしますか。」というのが八雲の考えでした。
小泉八雲旧居には八雲愛用の背の高い机も再現され(実物は小泉八雲記念館に展示)、座って八雲の目線を体感することができます。
当時はまだ珍しい国際結婚でしたが、セツは子どもの頃に出会ったフランス人から、虫眼鏡をもらい、宝物として大切にしていました。その記憶から外国人への抵抗感があまりなかったようです。
一方言葉の壁は大きく、セツは英単語帳を作るなど努力したものの、使いこなすまでには至らず、やがて二人は日本語の単語をつなげて会話する、独特な「ヘルン言葉」で意思疎通をするようになります。
ある時、物語が好きだったセツが怪談話を語って聞かせると八雲は大変喜び、セツの「語り部」としての素養を見出しました。セツが語る民話や怪談を、八雲が再話して作品を次々に生み出し、『怪談』へと昇華させていきます。
八雲の代表作『怪談』は「KWAIDAN」とつづられていますが、セツの出雲なまりをそのまま表記したものと言われています。
八雲もセツも幼少時から苦労を重ねてきましたが、夫婦となってはじめて「あたたかい家庭」と出会い、ようやく心の安住の地を得ることができました。セツは夫のことを誰よりもよく理解し、彼の役に立つことに喜びと生きがいを感じる日々でした。
晩年に、八雲はセツを本棚の前に連れて行き「この本、みなあなたのおかげで生まれましたの本です。世界で一番良きママさん」と妻への感謝を表したと言います。
虫眼鏡
織見本帳
英単語帳
小物類
姿見
セツの支えで誕生した『怪談』
小泉八雲記念館展示品より
八雲はセツや、尋常中学校の教頭で友人の西田千太郎などとともに様々な場所へ出かけ、さらなる日本人の民間信仰、死生観などにふれていきます。
加賀の潜戸は荒波にうがたれた海食洞門で、美しい海と神話に彩られた新潜戸に八雲は感嘆しました。思わず飛び込んで泳ごうとして、神聖な場所だからと周囲に止められ、しぶしぶあきらめたそうです。
旧潜戸の「賽の河原」で、夭折した子供が積んだとされる小石の塔が並ぶ不思議な光景に、深い関心を寄せます。八雲は、子供たちの魂を守り救ってくれる存在としての地蔵に強い愛着を感じています。
八重垣神社は、昔から縁結びの神様として人気でした。夫婦愛を象徴する連理の玉椿や、古杉が生い茂る古代の森にある鏡の池に、一厘銭を載せた紙の小舟(当時)を浮かべ、沈む時と場所で恋愛の行方を占う様子などを八雲は興味深く紹介しています。
セツも若い頃この縁占いを行い、友達はすぐ近くに沈み自分のは遠くで沈んだといいます。まるで八雲と結ばれる運命を暗示していたかのようです。
卵好きの八雲が、美保神社の神様は鶏嫌いで美保関では鶏はタブーだと聞き、何食わぬ顔で卵を頼んでみたら「アヒルの卵ならあります」と出してくれた茶目っ気あるエピソードを紹介しています。
遠く美保湾の向こうに大山も見える美しい港町を八雲は愛し、三回も訪れています。セツと共に滞在した旅館「島や」の跡地は小泉八雲公園になっていて、夫婦と長男一雄のレリーフがあります。
『古事記』を愛読した八雲は、神々の国・日本の中でも一番神聖な地とされるのが、出雲の国であると紹介しています。
1890年、八雲は外国人として初めて、出雲(杵築)大社の本殿へ昇殿を許されました。特別に許可された人以外は、日本人でも本殿に昇殿することはできません。千家尊紀宮司の案内により、本殿内部や宝物、神火をおこす様まで紹介してもらいます。
八雲は神聖な境内、宮司や神官たちの衣裳や所作、古代から続く祭祀など、初めての体験に深い感銘を覚え、日本人の魂の奥底にふれた感動を記しています。
セツは、八雲が好きな場所として、松江、美保関と並び日御碕を挙げています。
出雲大社を訪れた際に、西洋人でまだ訪れた者はいないだろうからと勧められ、セツとともに稲佐の浜から漁船で日御碕へ向かいました。断崖に沿って岩礁の間の迷路を縫うように進み、日御碕神社に到着。小野尊光宮司にもてなされ、この時初めてもずくを食べたそうです。
1891年の夏、八雲はセツや友人の西田千太郎とともに、大社の町で半月ほど滞在しました。
海が好きな八雲は稲佐の浜で海水浴を楽しみ、この場所を大国主命の国譲りなど神話ゆかりの神聖な地として紹介しています。また、そこで見た精霊船の美しさも記しています。
きれいな弧を描いて伸びる海岸線は、日本の渚百選にも選ばれています。
1892年に八雲とセツは初めて隠岐へ旅行し、島根の中でも特に純朴で正直・親切な土地柄に魅了されます。後に東京で暮らしながらも、八雲は家を建てるなら隠岐や出雲に建てたいと、島根を懐かしがっていたといいます。
八雲は隠岐の中でもとりわけ菱浦が気に入り、菱浦湾畔にあった岡崎旅館に滞在しました。
鏡のように穏やかな入り江を見て「鏡ヶ浦」と名づけ、水泳を楽しんだと言われています。
現在、跡地は小さな公園となり、石碑や夫婦像が建てられていますが、セツの像は世界でここにしかありません。また八雲にちなんで、海士町には「ハーン」という地域通貨があります。
隠岐の島町では玉若酢命神社へ立ち寄りました。隠岐国の総社であり、独特な馬入れ神事が有名です。
八雲は神社の参道に立つ大杉にふれ、800年以上前に尼僧によって植えられたという伝承や、この杉の木で作った箸で食べると歯痛になることもなく、長生きをすると言われていることなど紹介しています。
億岐家宝物殿には、八雲の手紙やキセル、双眼鏡が展示されています。
西ノ島は、隠岐を代表する景勝地・国賀海岸があり、絶景やアクティビティが楽しめる島ですが、歴史上では、後醍醐天皇が配流になった地であり、脱出までの1年余りを過ごされた行在所と伝えられている黒木御所阯があります。
八雲もこの後醍醐天皇ゆかりの場所を訪れました。別府の風景について、入り江に沿って茅葺の家々が並んでいる絵のような漁村と例えています。
セツは八雲のために民話や怪談を語り、八雲はセツの考えも取り入れながら、二人の共同作業によって多くの作品を創作しました。
「怪談には一面の真理がある」という考えを持っていた八雲は、単に恐ろしい怪談を描くのではなく、その話の中に普遍的なものを見出そうとしていました。
ここでは、八雲とセツがつづった物語を中心に、島根にある怪談・奇談ゆかりの地を紹介します。
松江城は、松江開府の祖・堀尾吉晴とその子忠氏によって築城されました。別名「千鳥城」とも呼ばれ、築城当時の貴重な姿を残しています。
しかし八雲にとって松江城は不気味な怪物のように見えたようです。八雲は松江城にまつわるこんな怪談を紹介しています。
– story –
築城工事が難航し、美しく踊り好きな娘が人柱にされてしまいます。ところが城は完成したものの、若い娘が躍るたびに天守が震えるようになり、ついには城下に盆踊り禁止令が出されることになりました。今でも松江城近くでは盆踊りは行われないそうです。
地元では松江城にちなむ怪談は他にも伝わっており、何度も崩れる石垣の下を掘ると、髑髏が出土し丁重に供養。その穴からは澄んだ水が湧き出し「ギリギリ井戸」と呼ばれるようになったといいます。
徳川家康の孫にあたる松江藩初代藩主松平直政が、藩の守護神として祀ったのが城山稲荷神社です。近年では「玉を持つ石狐を見つけると願いが叶う」ともいわれパワースポットとして人気です。
八雲は千以上もある石狐を珍しがり、通勤途中にしばしば訪れました。境内には、さまざまな表情で並ぶ、大小の石狐が迎えます。なかでも、隋神門前の一対の狐が八雲のお気に入りでした。八雲が愛した狐は、現在傷みが激しいため場所を移され、2代目の石狐が門前で出迎えてくれます。
– story –
松平直政の元に「稲荷真左衛門」と名乗る美少年が現れ「城内に私の住まいを設けてくれれば、城下を火難から守ります」と告げて消えました。城内に建立された社は、数多くの石狐に囲まれ、その光景はまるで伝説の狐たちが一帯を守護しているかのようです。
普門院は、堀尾吉晴が松江城の祈願所として開山したのが始まりです。
境内にある「観月庵(かんげつあん)」は細川三斎流の茶室で、茶人大名としても有名な第7代藩主松平治郷(不昧公)は、窓から月を眺めることを愛したといいます。
八雲の怪談「小豆とぎ橋」ゆかりの場所として登場します。
– story –
普門院前の小豆とぎ橋の近くで「杜若(かきつばた)」を謡うと、その身に恐ろしい災厄が降りかかると言われていましたが、昔怖いもの知らずの侍がその橋に出かけ大声で謡いました。
亡霊が現れる様子もなく、侍は笑い飛ばして家に帰ります。ところが家の前に見たこともない女が立っており、漆塗りの文箱を手渡されます。開けてみると中には、血まみれの我が子の首が入っていたのです。
松江藩主松平家の菩堤寺で、初代直政から九代斉斎までの墓があります。七代藩主治郷(不昧公)の廟門は、名工・小林如泥の作で、飾りのブドウの透かし彫りなどが見事です。梅雨時にはあじさいの花が咲き誇り、「山陰のあじさい寺」として観光客に人気です。
八雲はこの寺をこよなく愛したそうです。六代藩主の寿蔵碑として、巨大な亀の石像の背にのった石碑があり、八雲はこの大亀にまつわる怪談を紹介しています。
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ある時から境内の大亀が動き出して池の水を飲み、さらには夜ごと町へ出て暴れるようになりました。
困り果てた住職が大亀に説法をしますが、亀自身もその動きを止めることができなかったため、住職は亀の背中に大きな石碑を置いて動きを封じました。
大雄寺は松江開府の際、安来市広瀬町より移転しました。山門前の川はかつて幅も広く、松平直政が舟を使って出入りしたといわれ、山門も藩主専用に作られました。ここは八雲が「母の愛は死よりも強し」と紹介した「飴を買う女」の舞台です。
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小さな飴屋に毎晩水飴を買いに来る女がいました。女があまりに痩せて顔色が悪いのが気になり、ある日後をつけてみると墓地へ入っていくので、飴屋は怖くなって逃げ帰りました。次の晩女が来て一緒に来てくれと手招きするので、ついて行くとある墓石の前で姿が消え、地面の下から子供の泣き声がします。墓を開くとあの女の骸と、側に赤ん坊がいて灯りににっこりします。母親の埋葬が早過ぎたため赤子が墓中で生まれ、幽霊となった母親が水飴で子供を養っていたのです。
八雲が松江に到着して間もない頃、第15代松江大橋が開通しました。八雲はできたばかりの鉄製トラス橋と対比しながら、昔の松江大橋にまつわる、人柱の悲話や不思議な石の伝説を記しています。
– story –
堀尾吉晴が初めて大橋を架けようとした時、あまりにも難工事だったため、源助という男が人身御供にされました。
その後大橋はようやく完成し、中央の橋脚は人柱となった源助の名をとって「源助柱」と呼ばれました。
また源助柱記念碑の隣に横たわる「大庭の石」は、打てば鐘のように響くが、一定の距離以上運ぶことができないという言い伝えがあります。松江城に運ばせようとした時、石が非常に重くなって、千人かかっても大橋から先へ動かすことができなかったと伝わっています。
妙興寺は松江にある日蓮宗のお寺です。八雲は『知られぬ日本の面影』の中で、この寺にちなむある男女の不思議な話を紹介しています。
– story –
その昔、将来を約束した男女がいました。ある年のこと、男は戦に行くことになり「必ず一年内に戻って嫁に迎える」と約束して出陣します。
ところが一年、二年過ぎても男は帰って来ず、女は失望して病に伏し亡くなってしまいました。その後男が帰って来ましたが、女は亡くなり親も巡礼の旅に出た後でした。男は悲しみ、妙興寺にある女の墓の前で命を絶とうとしますが、死んだはずの女が現れて止めます。二人は遠方へ行って結婚し子どもにも恵まれました。ある時巡礼中の親が偶然男と出会いますが娘の姿が見当たりません。もしやと布団をめくると、子どもに添い寝するように横たわっていたのは娘の位牌だったのです。
『怪談』の中でも「雪女」は有名ですが、元々八雲が雪女の存在を知ったのは、松江時代でした。セツの養祖父が子どもの頃、大雪の日に雪女に遭遇したという話を聞いたのです。大寒の頃、来阪(くるさか)神社へお参りに行く者がよく見たなど、出雲地方の雪女伝承が記憶に残り、後にその他の話をヒントに八雲が創作した話だと考えられています。
– story –
二人の木こりが吹雪の夜雪女に出会い、老人は雪女の白い息で凍死しますが、巳之吉は女のことを口外しないことを約束に許されました。
翌年巳之吉は美しい女性と出会って結婚し子どもも生まれます。ある晩巳之吉が妻お雪を見て、ふと昔出会った雪女の話を口にしたとたん「それは私でした」お雪は叫び「もし子どもたちがいなかったら、あなたを殺したでしょう」と言いながら消え二度と戻ることはなかったのです。
「怪談のふるさと松江」には数多くの怪談が語り継がれており、八雲の怪談や地元に伝わる怪談の舞台をめぐるゴーストツアーが開催されています。
めぐるスポットの中でも有名なのが清光院の芸者松風の話。八雲が紹介した怪談ではありませんが、今もなお、親から子へ伝えられています。
松江ゴーストツアー詳細 >
– story –
その昔、恋人のいる芸者・松風を横恋慕した侍が追いまわします。松風は懸命に逃げましたが、清光院の石段を駆け上がる途中、嫉妬に狂った侍に斬りつけられ力尽きてしまいました。階段に残った血は拭いても、削っても消えず、夜になって位牌堂で松風の謡をうたうと亡霊が現れると噂されたといわれます。
八雲は甘いものが大好きで、特に羊羹はお気に入りの一品でした。東京へ移住後も、妻セツはその味を懐かしみ遠路松江から羊羹を取り寄せていたと伝えられています。
このエピソードを八雲の孫、小泉時氏から聞いた一力堂の当主は、先々代の6代目高見作兵衛が明治16年に記した製法書の配合により往時の羊羹を再現。当時の羊羹は餡の割合が多く、現在売られている羊羹よりも柔らかい食感が特徴です。小泉時氏の提案により商品化され、セツがお正月には必ず取り寄せたという白いんげん豆原料の紅羊羹と、小豆を使った小倉羊羹の2種類が「ハーンの羊羹」として平成9年に発売されました。ゆかりの地を巡りながら、歴史が息づく特別な味わいをお楽しみください。
八雲が紹介した「飴を買う女」の話では、ある女が夜な夜な飴屋から水あめを買っていきます。
当時松江で唯一飴を売っていた店は「因幡屋」と呼ばれ、大雄寺にも近かったことから、飴を買う女に登場する店は因幡屋がモデルだったと考えられています。
その後場所も店名も変わり、現在は和菓子の老舗「桂月堂」として銘菓を提供しています。