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隠岐騒動

 慶応4年(1868)3月、隠岐島後において島民による自治政府が樹立された。幕末維新史上特異な事件として注目されているいわゆる「隠岐騒動」である。事件の要因としては、中村出身の国学者中沼了三の影響によって尊皇攘夷思想が島内指導者層に広まっていたこと、異国船接近による対外的危機感が強まっていたこと、米を中心とする物価高、役人と一部特権商人に対する島民の不満、不信があげられる。
 慶応3年(1867)、同志73名の連署で外敵に備えるための文武の稽古場(文武館)の設置を請願したが、松江藩の郡代(ぐんだい)によって却下されたことで、郡代と尊攘派島民との間の対立が深まっていた。そして山陰道鎮撫使が隠岐の村役人にあてた文書を郡代が事前に開封したことが騒動の引き金になった。11か村の庄屋大会が開かれ、郡代追放が決議された。3月19日島民3,000人が武装蜂起し陣屋を攻撃、郡代以下を島外に追放した。樹立された自治政権は水若酢(みずわかす)大宮司忌部正弘(いんべまさひろ)を総指揮役に、合議機関である会議所、執行機関として総会所などを設けて各庄屋が交代で勤めた。この政権は81日間つづいたが、5月10日松江藩の武力攻撃の前に崩壊した。首謀者とされた人たちは明治4年(1871)明治政府の手によって最高懲役1年半の刑に処せられた。

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