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広瀬絣

広瀬絣は200年の歴史を持つ伝統工芸品です

県無形文化財指定されました。技術保持者の認定は、昭和37年天野圭が受けていました。
広瀬絣は、広瀬城下の町医長岡謙祥の妻貞子が、文政7年(1824)に伯耆国米子で絣の染織法を伝授されて帰郷、婦女子に伝えて広めたのが始まりです。その後、弘化、嘉永ごろには織り方、染め方に改良が加えられて盛んになりました。明治時代には、綿打ち弓で糸引き用の綿を製造する綿打ち屋は広瀬町に12戸あり、藍染め業の紺屋も23戸あったといいます。明治20年(1887)に三沢庄太郎が、久留米に行き、高機(たかはた)を調査し、広瀬の景山秀蔵という大工に高機を作らせました。このころから、次第にいざり機から高機に変わり、糸も手引き糸が、紡績糸にとってかわるようになりました。工場も会社組織で運営され、企業化が進められました。年間生産高も10~13万反といわれ、販路も東京、大阪、北海道に及びました。しかし、明治39年(1906)ごろをピークに下降し、山陰線の開通を転機に、価格の安い備後絣におされてきました。その上、第一次、第二次と相ついだ大戦は、その衰微にいよいよ拍車をかけました。
柄行としては、着物柄には主に、中柄の幾何学模様や絵模様が多く用いられ、地味な着物の場合には、小柄の十字を基調とする模様の中に小さな絵模様を織りこんだりしました。また、布団、座布団、子負い掛などは、大柄の動植物の模様や文字記号、あるいは竜宮の図などの風景ものの柄が多いです。
広瀬絣の特色は、広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄といわれるように、大柄の絵模様にあり、複雑精密な絵模様を正藍一色に濃淡を交えて交錯させ、正確に図柄が浮かび出るように織り上げるところにあります。
現在広瀬絣センターの中に伝習所があり、多くの愛好者が機織に魅せられています。
昭和57年(1982)3月島根県ふるさと伝統工芸品に指定されました。

天野圭はH21年死去しました。H17年永田佳子(天野圭の四女)が県無形文化財の指定を受けています。又、天野順(天野圭の三男)が松江市北堀町で広瀬絣藍染工房を開業しました。H22年「広瀬絣技術保存会」を発足させ、共に広瀬絣の伝統を守っています。
昭和50年、記録保存を要する国の無形文化財に認定されました。

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