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山中鹿介一騎討の処

能義保健所北側に近い場所の洞貫川(どうかんがわ)べりに建つ。昭和15年(1940)10月5日、皇紀2,600年記念事業として、広瀬三日月少年団の企画により建設したもので、表面の題字は「山中公一騎討之処」となっている。
この碑の建っている所で、かつて尼子の忠臣山中鹿介とたら木狼介(たらぎおおかみのすけ)(注1)が富田川川中島で一騎討ちが行われたのである。永禄8年(1565)、富田城は毛利の大軍に包囲されていた。かつて中国地方の「十一州の大守」とまで称された尼子氏が、富田一城にひきこもって籠城していた。城内の食糧もすでに窮迫し、大将尼子義久をはじめ、城兵の顔には焦燥と困憊(こんばい)の色が深かった。
かかる時、石見国益田七尾城主益田藤包(ふじかね)の家臣品川大膳と名のる豪勇の武士が、山中鹿介に戦いをいどんだのである。大膳は鹿をとって食うという狼にちなんでたら木狼介と名前を変えていた。 この挑戦をうけた鹿介は、窮地に追いつめられながらも、みごとに狼介を討ちとったのである。
鹿介の勝利は、憂色のたちこめる富田城内に一陣の涼風を吹きこんだ。
この一騎討は、尼子興亡の悲喜こもごもの歴史の中でも有名で、多くの人々の感動をさそっている。

(注1)「たら」は木(きへん)に或ですが、ブラウザ上では表示できないため、平仮名で表示しています。

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