2023年11月02日 公開
安来市広瀬町にそびえる山城「月山富田城跡」。歴史的価値は日本100名城に名を連ねるほど高く、歴史ファンをはじめ全国各地から年間2万人が訪れています。今回は見どころや歴史はもちろん、ガイドと一緒にめぐるコースなどたっぷりと紹介。
標高約190メートルの月山(がっさん)を中心に、飯梨川に向かって馬のひづめのような形で広がる「月山富田城跡」。一見しただけでは、山の頂に点々と石垣と土塁が残るだけのシンプルな景観。ですが実は、歴史好きの間では日本随一とも評される山城なのです。
日本随一と称される理由は大きく4つ。まずひとつがその大きさ。山全体を活用した城の面積は約70万平方メートルにもおよび、これは東京ドームおよそ15個分に相当。銀山と港を支配し、古式製法「たたら製鉄」で財をなした歴代城主、尼子(あまご)氏の豊かな財政力をうかがい知ることができます。
次に中世から近世の時代の変化が表れている点。戦国・室町の中世時代は、土を用いた防御機能が多かったのに対し、近世の安土桃山・江戸時代になると、石垣をはじめとする石の城づくりに変化。「土の中世」から「石の近世」までの時代の変化が、点在する遺構を通して体感できるのも特徴のひとつです。
続いて3つ目のポイントは防御能力の高さ。山陰支配の要であった「月山富田城」は、周防の国(現山口県)の守護大名・大内氏、中国地方の覇者・毛利氏からも狙われ続けました。そこで歴代の城主は、急峻な地形を活かして防御拠点を各所に設置。敵を誘い込む仕掛けなど、侵攻を受ける度にアップデートしていきました。その堅牢さは「難攻不落の山城」と称されるほど。
最後に挙げられるのは、歴史のターニングポイントとなる戦いの舞台となったこと。周防をはじめ4か国の守護・大内義隆は尼子氏に敗れた後、家臣によって滅亡。山陽方面で覇権を握っていた毛利元就は、長い兵糧攻めの末に尼子氏を倒し、その後、毛利氏は山陰を平定して名実ともに中国地方の覇者となります。いずれも山陰地方の支配者を決める重要な節目であり、相対する大名にとって命運を握る戦いでもありました。
現在では城内に散策路が整備され、山並みの絶景が望める「月山富田城跡」。自然の地形を活かした山城はハイキングスポットとしても評判です。市内の観光名所「足立美術館」とも近いので、セットでめぐる方も多数。より深く歴史や遺構の特徴などを知りたい、ビギナーでも分かりやすくめぐりたいなら、ガイド利用がイチオシ。「もしも私がこの城に攻め入ったら」、そんな気分で、日本100名城にも選ばれた山城を楽しめます。
最寄りとなる駐車場から徒歩で城内をめぐれます。ふもとの「安来市立歴史資料館」から本丸までは約1時間。中腹にある駐車場からなら本丸までは30分ほど。城内はアップダウンが多く、足元が不安定な場所もあるため、歩きやすい靴で散策しましょう。
公共交通機関を利用する場合、JR安来駅からバスに乗車し、バス停「月山入口」で下車。車の場合は山陰道安来ICから15分ほどで、ふもとの「安来市立歴史資料館」に到着します。
駐車場はふもとに3ヶ所、城跡の中腹あたりに1ヶ所。いずれも駐車無料。ただし、中腹にある駐車場へ向かう道中は、道幅が狭いため、運転時はご注意ください。
入り口は3ヶ所ありますが、主要な見どころをめぐるには「道の駅広瀬・富田城」後ろの入り口から向かうのがおすすめです。なお、城内は自動販売機の設置がないため、夏季の来訪時は事前に水分の用意をお忘れなく。
自然と共生する城跡だけに、四季の景色も見もの。“見たい風景”を狙って出かけるのも一策です。
毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が変化していく中で、城と城下の基礎を築いたのが尼子(あまご)氏。元は近江(滋賀県)の京極氏の流れを汲む一族です。尼子持久(もちひさ)の時代、当地の守護・京極高詮(たかのり)の代官として月山富田城へ入城。その後、一度は城を追われるも経久(つねひさ)が奪還し、以降は山陰・山陽十一州を治めるまでに成長。巨大な土壁・土塁をはじめ、「月山富田城」の基礎を築きました。
一時は中国地方一の大名となった尼子氏。しかし、毛利氏の謀によって窮地に瀕し、月山富田城を追われることに。そこで、尼子氏の再興に立ち上がったのが、安来市生まれの戦国武将・山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)です。逆境の中でも尼子氏への忠義を貫き、尼子氏の滅亡とともに生涯を閉じた鹿介は今なお、地域のヒーローとして親しまれています。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と、三日月に祈った逸話などから戦前の教科書にも掲載。山陰の麒麟児の異名を持ちます。
無料開放されている「月山富田城跡」は自由に見学可能ですが、城跡の魅力や特徴を詳しく知るならガイド利用がおすすめ。ガイドブックには載っていない豆知識、スルーしてしまいがちな見どころなど、余すことなく楽しめます。
ガイドは毎週土曜限定の「定時ガイド」、土曜以外も対応可能な「通常ガイド」の2種類。今回は「定時ガイド」を実際に体験した様子を紹介。
≫月山富田城跡 等高線図データ(PDF)はこちら(安来市観光協会|安来市観光ガイド)
定時・通常ガイドともに「安来市立歴史資料館」が集合場所に。集合後、簡単に館内でレクチャーを受けてから城跡へ。今回は「安来市立歴史資料館」の館長さんと一緒にめぐっていきます!
曲輪(くるわ)とは、平らにならされたスペースのこと。城下にせり出した「千畳平」には、かつて櫓が建てられていたと考えられています。急峻な斜面から、山の地形をそのまま活かしていることが分かります。
千畳平に隣接する太鼓壇は、その名の通り、以前は時間を知らせる「太鼓櫓」があったとされる場所。尼子家再興のために尽力した山中鹿介の銅像が建立されています。
また「千畳平」も含め、周辺は多数の桜が植わり、春は花見スポットとしても賑わうそう。
発掘調査で見つかった2棟の建物跡が復元されている「花ノ壇」。城跡のほぼ中央に位置し、当時は薬草栽培のほか、政務を司る建物があったと言われています。戦うための工夫がここにもあり、敵の侵入を防ぐため、周辺の道はあえて回り道をさせるような造りに。
月山の山腹に位置する「山中御殿平」は、城主の居館があったとされる場所。その規模は3000平方メートルと広大で、周囲は石垣に囲まれています。
この辺りから石を用いた防御拠点が増加。中世時代までの自然の地形を活かした「土の城づくり」から、徐々に近世の「石の城づくり」へと変化していきます。ガイドさんによれば、尼子氏の後に入城した吉川氏、堀尾氏によって、石垣をはじめとする石の防御拠点が増えていったのだとか。
また、「月山富田城」にあった建物の一部は、安来市のお隣にある松江市の国宝「松江城」などの建材にリサイクルされたと話します。
「山中御殿平」へ向う途中、突如現れる「大土塁」は、見逃しがちな穴場。一見すると高さ7メートルほどですが、裏に回ると最大20メートルの急斜面。中世時代の「土の城」ならではの遺構です。
「大土塁」周辺は「塩谷口」と呼ばれる城内進入ルートのひとつ。城内の入り口には左右に土塁を配した防御拠点「虎口(こぐち)」もあります。「塩谷口」は道幅の狭い一本道であり、侵攻時の敵は一列にならざるをえません。そこへ、土塁の上から待ち構えていた兵が敵を攻撃。実践的な城として評価を受けている象徴的な場所なのです。
本丸がある山頂へは、ここから最大の難所である「七曲り」を登っていきます。度々、侵攻を受けた「月山富田城」ですが、「七曲り」から先は、廃城になるまで一度も侵攻を許さなかったそうです。
道中、こぢんまりとした曲輪が点在。かつては迎撃のための兵を配置する場所でしたが、現在は休憩ポイントに。ひと息入れつつ、山頂を目指しましょう。なお、ふもとから「七曲り」入り口までは約30分。
山頂部とは思えないほど、平らで開けた曲輪が目の前に。吹き抜ける風の向こうには、城下の町並み、安来港、晴天時には弓ヶ浜半島を一望できます。
戦の際、敵の動向は何よりも知りたい情報のひとつ。そういった中、遠くを見渡せる「月山富田城」は敵の動きを早期に察知できたため、兵の配置などを適切に、スピーディーにできたと考えられています。
また、石垣のほとんどが城下から見える位置に設置されています。ガイドさんによると、敵への防御力アピールはもちろん、城下の人々への権威を示すためでもあったとか。
ふもとから徒歩約1時間、ようやく「本丸」に到着。山頂には大国主命を祀る「勝日高守神社」が建立されています。創建年は不明ですが、出雲国風土記にも名前が記された由緒正しい古社。歴代城主からの信仰が厚く、特に尼子氏は熱心だったようです。
安来市の古代から近世までの歴史や文化を紹介する資料館。1階では「月山富田城跡」の見どころや構造、主要な人物などを、関連トピックスと合わせて紹介します。パネル展示のほか、山城ジオラマもあるので、散策前に立ち寄っておきたいスポット。
最近では、「御将印」や「御城印」各300円、「月山富田城跡」のオリジナルカード&ピンバッチ1000円といったグッズも話題。
関ヶ原の戦いの功績により、浜松12万石から出雲隠岐24万石の城主となり、「月山富田城」に入城した戦国大名・堀尾吉晴。松江市に「松江城」を築城した武将でもあります。墓は城内の「巌倉寺」にあり、墓の近くには吉晴の妻により、鹿介供養塔も建立。
住所:安来市広瀬町富田562 TEL:0854-32-2933(巌倉寺)
山中鹿介が生まれ育った場所とされる屋敷跡。天文14年(1545)に、月山ふもとの新宮谷で誕生した山中鹿介ですが、出生には諸説あり。一説には出雲市の「鰐淵寺(がくえんじ)」で生まれたとも。
住所:安来市広瀬町富田562
尼子氏最後の戦となった毛利氏との戦いで、尼子氏の忠臣・山中鹿介と益田藤兼の家臣、品川大膳が一騎打ち。「見事出雲の鹿が石見の狼を討ち取ったぞ」と勝どきを上げ、味方を鼓舞したとの逸話が残されています。
住所:安来市広瀬町栄町